上映会「過去のこれから」の感想

2022年11月19日、20日におこなわれたギー藤田映像作品展「過去のこれから」にいらしてくださったかたより、感想をいただきました。そのひとつひとつは、次回の上映会や新作制作の大きな励みになる大切な宝物です。ありがとうございました。

◎ 何かしらの感情の起伏を喚起するモノは
それだけで価値がある
長篇をつくる才能はまったくなし
短編は良い
(服部良康)

◎ 信念と観念と官能と観音サマが結集された
スンバでストレンジな作品集で御座りました
(丸玉五福)

◎ 全体的にchill out な感じが否めない作品群
コレは時代がgeeさんへ少し追いついてキタ感あり
(独太 石松)

◎ いやぁほんわか伊予弁よろしいですね。
なんと四国片田舎を美しく撮れていることぞ。
人物の素朴さに汚れた都会の涙流したい。
とまぁ各々の想いのまま観させてもらいました。難しくはわからん!
(角川清子)

◎ 後半の三本「Going there」「Put on you」「Meraney」掛け値なしに良かったです。
(瀬々敬久)

◎ 詩が具現化したかのような、美しい一片一片に胸を突かれました。映像を肌で感じる経験は、生まれて初めてでした。(野原由香利)

◎ 新作長編『混チェルト』Aプロと旧作短編Bプロの構成。旧作については以前の上映会やネットにアップされてたもので観賞済だけど、前よりも編集をいじってたりカラグレ調整してたりしてて良くなってた。とはいえ常人には理解し難い内容ではある。
本人も説明してたけど、根本的にギー監督の作品は物語がない。新作『混チェルト』もそうだし。まぁそうなると観ての印象で作品の欠点なぞあったりするのだが、もう本人が「これでいいのだ」という信念で作ってる以上何も言うべきではない、な…
ちょうど数日前にゴダール『イメージの本』観てるけれど、なんか「わけわからん」という感想では共通のものを感じる。たぶんあとちょっとだけ映画的な’おもしろさ’を追求すれば、もっと大衆向けになるとは思うんだがなあ…
今回の新作『混チェルト』は監督自身の2度の臨死体験のときに見た夢をそのまんま映画にした、とのこと。
終映後にギー氏「臨死体験したことのある人もこの中にいると思うんですけど」って、いやねーよふつう。
ともあれ齢72でますます創作意欲満々のギー監督であった。
ギーさんと出逢ったのは今は無い新宿ミラノ座入口横のモスバーガーのテラス席。訳あって2005年10月12日と日付までしっかり記憶してる。近頃はギーさんが四国に移り住んでしまったりコロナもあって3年に1回くらいしか会えないけど、この日「180歳まで生きる」と宣言があったので死ぬまでにあと34回くらいは会えるだろう。…ン?
(浦嶋嶺至)

◎ 義兄弟のギー藤田監督の映画「混チェルト」を観てきた。
この作品は筋も登場人物の脈絡もないし、イメージは複合ハレーションをおこすばかりで、いったい何を観ていたか?正直いって、ほとんど思い出せない。(多少は盛っている)
工場と白煙、水面のバシャバシャは嗚呼兄貴の映画だと個人的には思ったのだが。
作品は、最初から景色や人肌その他いろいろの唐突が去来し、ついでにシーンが古本屋の洋書棚のごとく折り重なり浮かんで、やたらに目眩を誘う。
後半の短編は何度か見たことがあるのだが、やっぱり勝手にイマジネーションを膨らませて観るしかなかった。
どう転んでも解説不可能だ。けれども、やっぱり何かがダントツなのだ。
これは職業柄かもしれないが、やばい抽象絵画を前にしている時の頭の回転スピードが要求された。その速度で回る頭の記憶から思い出したのは、バロウズがタンジールでブライオン・ガイシン(抽象画家)から「カット・アップ」(cut up)や「フォールド・イン」(fold in)の手法を吹き込まれた時言われた事。
ガイシンが「文学は絵画より少なくとも五十年は遅れている」と言ってバロウズに教えた。ガイシンの言葉を映画に例えれば脚本や状況説明などのセオリーに沿っている「映画は絵画よりもっと遅れている」となるだろう。
ここでカット・アップやフォールド・インの説明に沿って兄貴の作品を分析解説するつもりは毛頭ない、
上映の合間に兄貴が語っていたが兄貴は映画を唾棄したり、軽蔑したりしているわけではない。
兄貴の映画愛は兄貴自身が語っていた以上だろうと推測できる。
ただこいつはやばいなぁって思える作家のかなりやばい抽象絵画を見た様になったとだけ伝えたい。
(藤田浩司)